習志野市 歴史
消えた池 ~庄司ヶ池~
第一中学校(谷津6丁目)の周りには、一面の畑が広がっていますが、その一角にまるで島のように、こんもりと緑の茂った場所があります。その中に弁天を祭った小さな祠〔ほこら〕~与兵衛弁天〔よへいべんてん〕~があります。
七福神のひとりに数えられる弁天(弁財天)は、水の神様として知られています。水道などがあまり発達していなかった頃は、水を得ることは生活を支える重要な要素でした。その反面、治水技術が未発達であったため、河川のはんらんなども、生活を脅かす大きな危機でした。そのような水に対する畏れ〔おそれ〕の気持ちから、川や池などの水場の近くに、弁天を祭る祠が建てられました。
しかし、与兵衛弁天の周りは畑ばかりで、水場のようなものは見当たりません。なぜ、そのような場所に弁天の祠が建てられたのでしょうか。
明治43年(1910年)発行の地図を見ると、このあたりは庄司ヶ池とよばれ、津田沼や二宮などの雨水が流れ込む池が広がっていました。この池の水を祭るため、与兵衛弁天が造られたと考えられます。しかし庄司ヶ池は、大雨がふるとあっという間に貯水量の限界を越え、あふれ出た水が周辺の耕地に流れ出し、大きな被害を出していました。
そのため、人々は、池の水を海まで流す排水工事を計画しました。大正3年(1914年)1月に始まった工事は、池の下から直径約66センチメート利、長さ432メートルのコンクリートの管を埋め、その先252メートルは溝を掘り、水を流すというものでした。総工事費は5,625円で、そのうち3,100円を県が、残りを地主37名が負担しました。この水路はその年の9月に完成しました。
こうして庄司ヶ池の排水は完了し、耕地として利用されるようになり、現在にいたっています。いまでも傾斜している地形に、池だった頃の面影が残っています。
この工事の様子を記した「排水記念の碑」が近くにある丹生〔にう〕神社の境内に建てられ、往時の人々の願いと努力を物語る記念碑となっています。